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館長が語る(月ヶ瀬公民館)

[2016年5月27日]

ID:6824

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月ヶ瀬公民館館長 上田 善紀(うえだ よしき)

月ヶ瀬といえば…

月ヶ瀬 ─ といえば、なんといっても<梅渓>と<お茶>ですよね。早くも、1922(大正11)年、「月瀬梅林」として奈良公園、金沢の兼六園とともに、わが国で最初の名勝指定を受けている、いわば〝名勝のレジェンド〟です。

お茶は、県内随一の生産高を誇る、大和茶一番の生産地です。生産高だけではありません。その品質も他の追随を許しません。ヨーロッパにも進出されているIさんを始め、こだわり抜いた茶葉は、まさに絶品です。そんなお茶畑のあざやかな緑が目に染みる5月、茶摘みの時期を迎えにわかに活気ある銘茶の里となりました。

いやいや、月ヶ瀬は梅とお茶だけではありません。五月川畔に広がる桜は圧巻。長引(ながひき)の山道から桃香野(ももがの)を望む一望は<一目八景>とも呼ばれ、知る人ぞ知る絶景ビューポイントです。

桜

五月川畔に広がる美しい桜風景

ちょっと、ここから歴史散歩におつき合いください ~尾山代遺跡のこと~

あとひとつ、ぜひとも知っていただきたい「月ヶ瀬の里のスポット」を紹介しましょう。

「尾山代(おやみで)遺跡」です。奈良時代から平安時代(8~12世紀)の集落跡で、古代山間の生活を知る上で貴重な遺跡であることから、県の史跡に指定されています。

県内の茶の生産地が集中している大和高原の農業経営と農地の集団化整備のために、国営事業として開発を進めた「大和高原北部土地改良事業」で、1985(昭和60)年の耕地造成中に偶然発見された遺跡です。

田んぼの中の尾山代遺跡

田んぼの中の尾山代遺跡

平城京の都づくりを支えた村びとたち ~杣びとのこと~

遺跡の案内板には「大安寺の杣を管理した集落遺跡」という説明があります。当時、平城京内にあった大官大寺(=大安寺*当時の大安寺は、現在の大安寺とは比べようもなく広大な敷地と勢力を誇っていました)や平城宮廷を造営するためなどの木材を供給する「杣(そま)」が月ヶ瀬にあったのでした。

「杣」とは、材木を伐り出すための山林のこと。古代の宮殿や大寺院の造営には、当然のことながら大量の材木が使われます。

万葉集に、しっかりとそのキーワードが残されています。

 

真木柱(まきばしら) 作る杣人いささめに 仮廬(かりほ)のためと 作りけめやも

                                  作者不詳(巻七・1355)

訳:立派な真木柱を作る杣びとは、いいかげんな気持ちで仮小屋を作るために立派な柱を作ったのでしょうか。いや、そんなことはありません。あなたと契ろうとする私は、立派な柱の家庭を作るつもりですよ。

「真木柱」とは、立派な木の柱のこと。杉や檜などの材木で作った、太くて立派な柱です。宮殿や大寺院、邸宅を造営するときに用いられました。

都の造営や寺院の築造が進められた奈良時代、大量の木材を確保するために平城京周辺の山林を官司や貴族、寺社によって「杣」とする地域を指定し、そこでは多くの杣工(=職人)たちが従事していたのでした。

トラックもない時代に、重くて大きな丸太をどのようにして都まで運んだのでしょうか。

 

宮材(みやき)引く 泉の杣に 立つ民の やむ時もなく 恋ひわたるかも

                                  作者不詳(巻十一・2645)

訳:宮廷を造営する材木を供給する、泉の杣山で働く民のように、休む時もなく私はあなたに恋し続けるのだ。

田上山(今の大津市)から伐り出した檜材を筏に組み、宇治川から木津川を経由して藤原京まで運んだ様子が歌われています。

「泉」とは、今の木津川市加茂町の地です。
※R24奈良─山城間の木津川に架かる橋、泉大橋があります。

都の造営に必要な材木は、河川を利用して運んだのでした。ちなみに、「泉」からは、陸路で荷車に載せたり綱を曳いたりして平城京内まで運んだことが平城宮出土の木簡を通して推測されます。

月ヶ瀬には、名張川があります。名張川から木津川を経由して、大木が難なく運ばれたのでしょう。
※平城京跡から月ヶ瀬まで、わずか30数kmです。

古代びとの息吹を感じさせる月ヶ瀬に、ぜひ…

「尾山代」の人々は、平城京造営を支えるとても大きな役割を果たしていたのでした。そんな古代びとの足音が聞こえてきそうな原風景の中の月ヶ瀬を、ぜひ訪れてみませんか?

職員紹介

月ヶ瀬公民館の職員です。
左から
 西脇 晃子
 上田 善紀(館長)
 佐々木 栄
です。

[2016年5月]

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