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あしあと

    こんな講座ありました(つげの索道と凍豆腐)

    • 更新日:2023年2月3日
    • ID:12195

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    つげの索道と凍豆腐<都祁公民館:2022年4月27日(水)~12月7日(水)全3回>

    昔、奈良市の東部にあった安全索道のことについて、当時を知る人から座談会風に話を伺い、当時の様子を想像して、都祁の歴史遺産として残していくことを目的に開催しました。

    今年は、針駅付近の駅や町の様子について語り合いました。

    2021年度は「見たこと、したこと、聞いたこと」と題して資料を見ながら、当時の様子や思い出、体験を地域の方から伺いました。

    2021年度の講座の様子はこちら↓

    こんな講座ありました(プチ田舎暮らし・都祁 ―凍豆腐―)

    前回の講座を終えて、当時の様子を知る人、様子を語り継いでいる人が多くいることがわかりました。

    第1回:2022年4月27日(水)

    本日、中心に話を進めていただく大西武男さんです。

    いろいろな資料を見ながら自己紹介も行いました。

    こちらの絵は、当時の針駅付近の様子を思い出して描いてきてくださったものです。

    絵があるとわかりやすいですね。
    当時の様子や思い出を伺いました。

    大和高原の凍豆腐産業が、この地域にさまざまな利益をもたらしていたとのことです。

    具体的にどのような利益があったのか(当日の資料より)

    ◎豆腐を作る人、凍豆腐を冷凍から乾燥仕上げをする人、製品を出荷する人など豆腐工場で働く人が増えた。

    ◎平坦部の農家を回り豆腐の原材料の大豆を集めたり、凍豆腐の売り込みに凍豆腐の販売人がヤナギゴオリを背負って各地へ自転車・自動車・乗り合いバスを利用し移動した。

    ◎豆腐の原料の仕入れや凍豆腐の販売の荷物運びなどで索道を利用した。

    ◎牛(車を引く牛や馬、農耕の牛馬、肉牛など)ヤギなどの家畜の飼料として、凍豆腐を作る時に出た粕(おから)を利用した。

    ◎豆腐の加工から出る(シミズ)を水田に流し地力の強化や、風呂、家畜、学校の掃除用の温水(洗い水)などに利用した。

    ◎凍豆腐作りに必要な燃料は、柴や薪(割木)を利用したことで、山仕事が増え、山師(柴や薪を作る人)、車引き(薪や柴を運ぶ人)など多くの人に仕事が増えた。

    ◎索道と牛車時代から、木炭自動車、ガソリン燃料トラックの三輪トラックへと現代の自動車輸送手段へ変わってきた。

    など。


    当時は、大和高原の交通の便が悪かったそうです。

    あれから、名阪国道が1965(昭和40)年に開通しました。

    今は、南北線も改修工事され名阪国道沿いには新しい工場もでき、多くの人が各地から来ています。

    さらに、道の駅もできました。


    1回目を終えて(参加者の声)
    • 都祁の文化がよくわかりました。
    • 昔のことがわかり、良かったと同時に、当時の皆さまのことをいろいろと聞かせていただき、とても楽しかったです。
    • あまり歩けないので、このような講座はありがたいです。

    2回目は、8月3日(水)の予定です。

    駅や町の様子を具体的に再現できればと考えています。

    第2回:2022年8月3日(水)

    「つげの索道と凍豆腐」の2回目は、前回の回想をもとに1940年代後半~1950年代前半(昭和20年代)くらいの針駅付近の回想図を作りました。

    これと天満駅の平面図を参考に針駅の平面図も復元しました。

    その2つの絵を紹介します。

    当時の針駅付近の解説されています。

    こちらは当時、走っていた木炭自動車を絵に描いて説明されています。

    多くの質問や意見がだされました。

    次回に復元予定の小倉駅を知る方も、駅や駅周辺の様子について話してくださいました。
    小倉駅の周辺は、事業所関係の施設が多くあったようです。


    講座当日提示された資料より

    索道による輸送と荷物について

    1. 営業時間:9時から17時の2往復
    2. 積載量:およそ30貫から40貫(1貫は、3.75キログラム)
    3. 中間駅(針)での取扱量:1日平均160貫から180貫


    郵送荷物

    ・高原より奈良へ

    • 凍豆腐は冬期から春期にかけて
    • 薪、炭は四季を通じて(特に春先が多い)
    • その多、夏期は、キュウリ、野菜、柿

    ・奈良から高原へ

    • 果物、魚類、調味料、農具、肥料、機械類、家具、日用雑貨、土木材料、大豆(秋から冬)、飲料水(夏)


    参加者の声
    • 先人の知恵、知識、技術を子どもたちに伝えていきたいと思います。
    • みんな和気あいあいの中で、過去を思い出して記録している。この様子がよかったですね。
    • 具体的な資料、説明があってよかったです。
    • 知らなかった昔の話を聞くことができ、良かったです。
    • 都祁にはどのような民話があるのか知りたくなりました。

    次回、3回目は12月7日(水)、小倉の駅周辺の町の様子の復元を予定しています。

    第3回:2022年12月7日(水)

    「つげの索道と凍豆腐」の第3回は、小倉の凍豆腐の歴史についてです。

    今回は、小倉山凍豆腐組合の歴史、1940年代後半~1950年代前半(昭和20~30年頃)の状況や、終点だった小倉駅の様子などについてのお話を伺います。

    当時の小倉の町の様子を描いて、詳しく説明してくださいました。

    現在の地図に重ねて描いてくださいました。

    当時の様子がうかがえる資料も展示していただきました。

    水箱(凍豆腐を入れる箱)と水箱に貼るラベル、大正時代の賞状です。

    大正時代、もう100年も前になるんですね。

    参加者の声

    • 小倉のことはあまり知らなかった点がありました。知れてよかったです。
    • 楽しい時間でした。知らないこと、興味あることがたくさん出て、うれしい時間でした。

    講座を終えて

    今年度は、3回目の講座で都祁にあった針駅、小倉駅と町の様子の再現にチャレンジしました。

    集まった皆さんの小学校の頃の記憶をたどりながら「見たこと・したこと・聞いたこと」を語り合っていただき、天満駅(田原)の見取り図を参考にしながら再現へとつながっていきました。

    参加されている皆さんが質疑応答をされている時、熱心にお話を伺っていらっしゃっていたのが印象的でした。

    「大和高原文化の会」の皆さんどうもありがとうございました。

    来年度は、地図をもとに小倉の町を訪ね動力源だった水車をたどり、もう一つの生産地だった白石町をめざして歩いてみようと思っています。

    次回もぜひご参加をお待ちしています。

    当日の資料の抜粋

    小倉山凍豆腐の歴史(針ケ別所村史より抜粋)

    1842(天保13)年

     杉本武助 紀州高野山のふもと野川で凍豆腐製造の技術を習得し、その製造を始めた。

    1843(天保14)年

     大豆を石臼にて挽き潰す動力として水車を利用する。

    1889(明治22)年

     100戸余りの同業者が生じ、同業組合の必要を感じる。

    1893(明治26)年

     大和河内紀伊凍豆腐製造組合を組織し、農商務省の許可を受ける。

    1898(明治31)年

     11月21日先覚者の杉本武助氏の記念碑を小倉に建立する。

    1902(明治35)年

     山辺添上郡の区域とした小倉山凍豆腐組合を組織し奈良県知事の認可を受ける。

    1910(明治43)年

     第10回関西府県連合共進会を名古屋で開催する。

     本組合は、関東、東海地域に販路を拡大するために組合員の製品を出品し、本組合の売店を設置した。

     当時の組合長は大西庄一郎氏、副組合長は中辻鶴松氏であり、販路拡大と宣伝に努める。

    1913(大正2)年

     重要物産同業法により、小倉山凍豆腐製造同業組合に変更し、認可申請が認められる。

     大西由松氏が奈良県知事より模範職工として表彰される。

    1914(大正3)年

      大西庄一郎氏の功績を讃え小倉に記念碑建立。奈良県知事の認可される。

    1915(大正4)年

     農省務大臣の認可。

     組合員総会で、小倉山豆腐製造組合が確定する。

     初代組合長 大西庄一郎氏、副組合長 中辻鶴松氏、会計 高倉万太郎氏が当選する。

    不詳

     奈良、大阪、和歌山三連合を結成、後に徳島を加え、関西豆腐連合に改称する。

    不詳

     福住村山田に研究工場建設、技術者として兵庫県の山下理之助氏、地元荻の松浦俊治郎氏、上深川の山本伊之助氏が活躍する。

    1918~1919(大正7~8)年

     工場数125、2郡6村、18ヶ大字に及ぶ。

    1922(大正11)年

     索道が小倉まで延長される。

    1927(昭和2)年

     生産高約9万箱で(9000万切り)である。

     1切れ市価3円として、2億7000万円の生産になる。

     工場数は162件であった。

    1933(昭和8)年

     奈良県豆腐工業組合に改組、初代組合長 高倉郁雄、同時に全国工業組合中央会奈良県総代に当選する。

    1943(昭和18)年

     大東亜戦争勃発、軍需品として軍に納入する。

    1944(昭和19)年

     野迫川凍豆腐組合を併合し、奈良県凍豆腐統制組合と改組される。

    1946(昭和21)年

     統制組合解散、奈良県小倉山凍豆腐商工業組合に改組される。原材料の大豆の入手が困難になる。

    1950~1951(昭和25~26)年

     暖冬異変や冷凍製品の進出が著しく、天然凍豆腐も全国的に姿を消すようになった。

    1951(昭和26)年

     索道が廃止される。

    1954~1955(昭和29~30)年

     ついに冷凍2、天然凍豆腐1の工場数となる。