ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

スマートフォン表示用の情報をスキップ

現在位置

あしあと

    こんな講座ありました(平城歴史ウォーク)

    • 更新日:2024年1月24日
    • ID:13815

    ソーシャルサイトへのリンクは別ウィンドウで開きます

    平城歴史ウォーク<平城公民館:2023年11月29日(水)>

    都として栄えた奈良には、寺社や天皇陵、そして世界遺産が多くあります。

    そのような歴史の深い奈良を歩きました。平城公民館から高の原までの道のりを、NPO法人「なら・観光ボランティアガイド会朱雀」の方々に案内してもらいながら地域の史跡を巡りました。

    また、健康増進に寄与するために無理のない距離を歩き、運動習慣づくりのきっかけとなることも目標としています。

    コースは、平城公民館で集合し3班に分かれて、中山八幡神社 ⇒ 常光寺 ⇒ 押熊八幡神社 ⇒ 忍熊皇子社 ⇒ 押熊瓦窯跡 ⇒ 万葉の小径 ⇒ 石のカラト古墳 ⇒近鉄高の原駅まで歩く約6.5kmのコースです。

    平城公民館スタート

    平城公民館での説明後、出発です。
    今日は、天候もよく気持ちよく歩くことができます。

    中山八幡神社

    中山八幡神社は、古来より地域の氏神さまとして、世々代々から宮司、神主、おとな衆等々によって五穀豊穣をはじめ身体健全、家運隆昌、学業成就、交通安全等々を祈願し、御人徳の高揚に専念奉仕されています。(中山八幡宮HPより)

    中山八幡神社

    主祭神は八幡大神ですが、境内には大津社、春日社、金毘羅社に、各ご祭神を祀っており、よろずの願い事をお受けいただけます。(中山八幡宮HPより)

    常光寺で説明

    常光寺の由来は、もともとこの忍熊(おしくま)の里に小庵を構えていたが、1673年に現在の地に移ったらしいです。(奈良市史社寺編)

    常光寺で説明

    常光寺がこの地に移ってから10年後(1683年)円海道珍律師が入寺するに及んで、寺運は隆盛になったらしいです。
    そして、円海は鐘楼・不動堂・御影堂・鎮守八幡等を建立しました。
    現在も多くの仏像や仏画など残っています。(奈良市史社寺編)

    押熊八幡神社

    この八幡神社は、1691(元禄4)年11月28日に勧請されたとあります。
    また、境内にある「八大竜王神社」の前に、「1702(元禄15)年、天八大竜王奉寄進・忍熊村」と銘のある石燈篭があることからすると、この八大竜王神社は忍熊の主神であったが、八幡神社の奉斎で主客転倒し、八大竜王神社が八幡神社の末社となったのではないかと考えられています。
    また、神殿向かって右側には「祓戸の神」、左側には「三社」を祀っており、右端は「鹿嶌(かしま)神社」、中央は「木花佐久夜神社」、左端には「市杵島神社」があります。正面参道左側には「松永大明神」。
    「秋葉大明神」・「新火災大明神」等の「稲荷神社」を祀っています。境内右手には、「こうずいさん」を祀っています。(境内由緒書より抜粋)

    忍熊皇子社

    忍熊(おしくま)王と麛坂(かごさか)王は、仲哀天皇の皇子で、母は大中姫。
    仲哀天皇崩御の後、神功皇后は新羅出兵を終え、筑紫に還り皇子(後の応神天皇)をお生みになられました。
    翌年春2月、皇后は皇子とともに大和へ凱旋の途につかれたが、このことを知った忍熊・麛坂王は、皇位が幼皇子に決まることを恐れ、皇后軍を迎え撃とうとしました。
    しかし、兄の麛坂王は突然赤猪に襲われて亡くなり、弟の忍熊王は皇后軍に押され、最後の戦にも敗れ、瀬田の渡し場付近で入水して亡くなられました。

    忍熊王は、当時この地域を支配していた実在性の高い人物・王の一人で、古来より忍熊王を奉斎してきたこの地域の古い歴史を忍ぶことができる。(忍熊王子社説明版より)

    押熊瓦窯跡

    8世紀の平城山では、平城宮の宮殿の屋根を飾る多くの瓦が作られていました。
    この押瓦窯もその内の一つで、1972(昭和47)年の発掘調査によって瓦を焼く6つの窯跡と、瓦を製作するための工房の跡などが見つかりました。
    登窯形式の中山瓦窯から平窯形式の音如ケ谷瓦窯(おんじょがだにがよう)へと変化していく中間のタイプに属し、歌姫瓦窯と類似します。(説明版より抜粋)

    万葉の小径

    万葉の小径には、計36種類の万葉植物が植えられ、万葉の人々と植物とのかかわりや歴史をわかりやすく学べる小道です。

    石のカラト古墳

    この石のカラト古墳は、1979(昭和54)年に奈良国立文化財研究所によって発掘調査されました。
    8世紀初めの築造とされる上下方墳で、下の方形部は、一辺13.8m、高さ1.36m、上の円形部は、径9.2m、高さ1.55m、石室は高松塚古墳石室と同じ横口式石室で間口1.15m、奥行2.6m、高さ1.2m、15枚の凝灰岩の切石でできています。
    本古墳は、墳形が上下方という数少ない例であり、遺存度も良好です。
    カラトの名は石室が唐櫃に似ていることからつけられたらしいです。

    説明は、なら・観光ボランティアガイドの会朱雀が当日配布してくださった資料を参考にしました。

    最後に近鉄高の原駅でガイドの方々にお礼を言って解散しました。

    受講者の感想

    • 歩いていてとても気持ち良かった。
    • 説明が分かりやすく良かった。
    • とても分かりやすい。説明とても楽しかったです。どうもありがとうございました。
    • とても楽しく歩けました。
    • とても丁寧で親切な案内でした。ありがとうございました。
    • あっという間の6.5キロでした。ガイドの方の説明はとても分かりやすかったです。

    講座を終えて

    コースの距離は、6.5kmを少し長いかなと思っていたのですが、天気も良く少し汗ばむほどで、参加者の皆さんはとても元気に歩かれました。

    とても楽しい一日でした。

    今回もNPO法人なら・観光ボランティアガイドの会朱雀の方々に案内していただき、奈良再発見の講座を開催することができました。

    来年度も開催予定です。

    詳細については、「ならしみんだより」や「奈良市生涯学習財団ホームページ」をご覧ください。