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あしあと

    こんな講座ありました(つげの索道と凍豆腐)

    • 更新日:2024年1月2日
    • ID:13786

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    つげの索道と凍豆腐<都祁公民館:2023年10月1日(日)>

    この講座は、奈良安全索道について知っている方の話を聴き、当時の様子を想像し、都祁の歴史遺産を巡ることを目的に開催しました。

    地元にお住まいで、「奈良安全索道」が通っていた当時の様子をご存じの水口さん、杉本さん、西谷さんの案内・説明で、「都祁の索道と凍豆腐」で奈良安全索道の終着駅「小倉町」を訪ねました。

    小倉町は、かつて日本一の生産量を誇っていた「小倉山凍豆腐」発祥の地で、原材料の輸送に貢献した奈良安全索道の終着駅があった所です。

    江戸時代、杉本武助という人が、お地蔵さんにお供えした豆腐が凍っているのを見て「高野山で食べた凍り豆腐をこの小倉でも作れるのではないか。」と考え、高野山に技術習得の修行に行かれ、天保13(1842)年に製造を始めました。

    その後、大豆を石臼で挽く動力を水車を利用するなどして効率化を図り、1889(明治22)年には100戸あまりの同業者があり、1893(明治26)年には「大和河内紀伊凍豆腐組合」が組織されました。

    大西庄一郎さんらの活躍により、1918~1919(大正7~8)年には、工場数は125にまで増え、索道も都祁針町までだったのが、1922(大正11)年に小倉まで延長されました。

    保存が効き、軽量で栄養価が高い凍豆腐は、軍需品としても重宝されたようです。

    しかし、1946(昭和21)年頃から原料大豆の入手が困難になったことや、天然製法に比べ新しい冷凍製法は品質や規格統一の点で優れており、1950~1951(昭和25~26)年には、暖冬の影響もあり、その後の生産量は激減しました。
    やがて、深川まで延長する計画だった索道も廃止されました。
    今も製造組合の門柱、凍豆腐製造小屋、索道鉄柱の基壇の一部と、「杉本武助」「大西庄一郎」の記念碑が残っています。

    「杉本武助」の記念碑を訪ねました。
    子孫の杉本さんが家の近くに移設されたそうです。
    「大和高原文化の会」の西谷さんは、拓本を採るなどして、保存活動・研究活動も行われています。

    索道の鉄塔を支えていた基壇が残る場所を訪ねました。

    小倉駅からは、2つ目の鉄塔跡です。名阪国道の工事の際には、いくつかの基壇も消えてしまったそうです。

    この場所も、竹やぶの中にあり、すぐ隣には工場が建設中でした。

    基壇は4つとも残っているのですが、1つは横向きに倒れ、1つはサクラの大木の根に包まれそうになっています。

    しかし、残っている2つともコンクリート製で、中央に固定用のボルトが埋め込まれていて、ネジの溝は、まだはっきりと残っていました。

    集落の中には、トタン屋根の工場が今もいくつか残っています。

    赤茶色に錆びていますが、トタン板は当時のまま使っておられるそうです。

    真冬の最盛期にはこの中で凍豆腐が作られ、気温が下がり始めると外に出して凍らせていました。

    その判断は非常に難しく、チャンスを逃すと製品ができず、気温が下がらないと凍らずに品質が低下してしまいます。

    大阪の市場では、小倉山の凍豆腐の価格が、他のものも含めて価格の基準になるほどでした。

    奈良盆地を超え、生駒山を超えて片道約50kmの道を運んでいた頃には、暗峠で追いはぎの被害に遭うこともあり、桶の底にお金を隠すなどの苦労や工夫もあったそうです。

    最後に、大西庄一郎さんの記念碑「大西君紀功碑」を訪ねました。

    1914(大正3)年3月に建立されたもので、明治~昭和前期にかけての教育者、越智宣哲氏による大西庄一郎さんを讃える言葉が刻まれています。

    文面からは、勤勉で人のために尽くされた大西さんの人柄や功績が書かれていて、その人柄が思い浮かぶようでした。

    参加者の声

    • 今まで知らなかった索道の道筋を教えていただき、また、実際に見学出来て良かったです。
    • 都祁小倉町の当時の発展ぶりがよくわかって良かったです。
    • いろいろ新しいことなど詳しく教えていただきありがとうございました。
    • 資料も詳しく、ありがたく使わせていただきます。
    • 基壇周辺の草刈り等ありがとうございました。

    活動を終えて

    3年前に、ここの基壇を訪れた時は、地権者の方に許可をいただき、竹を切り草を刈り、基壇に積もった枯葉を取り除いて講座に臨みました。

    今回は、それほどの作業ではありませんでいたが、草や木が基壇を覆い始めていました。

    すぐ隣のグランド跡では工場建設が進んでおり、次回からは基壇周辺は大丈夫ですが、別ルートを考える必要がありそうです。

    「大和高原文化の会」の方々により、山中に埋もれていた基壇の再発見もされていて、大きさ、配置、形状などを記録として残してくださっていますが。現物については、なかなか保存活動も難しそうです。

    「まぼろしのロープウェイ 奈良安全索道」として、興味・関心が高まっているようで、貴重な史跡として保護活動へのつながりも期待したいと思いました。